独禁法24条の差止訴訟で作為を命じることができる根拠
独禁法24条の差止請求において作為を命じることができるかについて、三光丸事件判決(東京地裁平成16年4月15日)は、
「独占禁止法24条は,「侵害の停止又は予防を請求することができる」と規定しているものであり,
この文理からすれば,独占禁止法24条に基づく差止請求は,相手方に直接的な作為義務を課すことは予定していないというべきである。」
と述べて作為命令を否定しました。
学説はほぼ一致してこの判決に批判的で、作為義務を課すことができるとしています。
私も作為命令ができると考えますが、学説の挙げる理由はいまひとつまどろっこしいように思います。
たとえば、
「侵害の停止または予防に『必要な行為』として一定の作為をなしうるとし、給付内容が明確であること等を条件として、必要であるならば作為義務を命じることもできるとする見解が多数である」(注釈独占禁止法p584)
「24条と同様の文言であった旧不正競争防止法3条においても、判例・通説は作為命令が認められると解していた」
「実質論からしても、不作為の目的を達するために作為が必要となることは自明のことである」
「本来インジャンクションとは作為命令も含むものである。」
「『立ってはいけない』と『座っていよ』のように、不作為義務と作為義務が同じ場合もある」
などと、いろいろと理屈を立てておられますが、わたしはこの論点は、少なくとも出発点はとても単純なもの(同時に、三光丸事件判決の誤解も非常に単純なもの)だと思っています。
独禁法24条は、
「第八条第五号又は第十九条の規定に違反する行為によつてその利益を侵害され、又は侵害されるおそれがある者は、
これにより著しい損害を生じ、又は生ずるおそれがあるときは、
その利益を侵害する事業者若しくは事業者団体又は侵害するおそれがある事業者若しくは事業者団体に対し、
その侵害の停止又は予防を請求することができる。」
と規定しています。
誤解を排除するために指示語に逐一説明を加えると、
「第八条第五号又は第十九条の規定に違反する行為によつてそ〔=後出の『者』、つまり差止請求者〕の利益を侵害され、又は侵害されるおそれがある者は、
これ〔=差止請求者の利益の侵害、または、差止請求者の利益の侵害のおそれ〕により著しい損害を生じ、又は生ずるおそれがあるときは、
そ〔=差止請求者〕の利益を侵害する事業者若しくは事業者団体又は侵害するおそれがある事業者若しくは事業者団体に対し、
そ〔=差止請求者の利益〕の侵害の停止又は予防を請求することができる。」
ということかと思います。
そしてポイントは、24条は、
「その侵害の停止又は予防」
と規定している、という点です。
ここではあきらかに、「停止又は予防」の目的語は「その侵害」です。
そして、「その侵害」は、上述のとおり「差止請求者の利益の侵害」です。
あるいは、もっと突き詰めて言えば、「停止又は予防」の目的語は「侵害」です。(「その」は「侵害」への修飾語です。)
なのでこの条文が言っているのは、差止請求者は差止請求者の利益の侵害の停止または予防を請求できる、ということに尽きます。
けっして、相手方の行為を停止することを請求できるといっているわけではありません。
「差止請求者の利益の侵害」というのは、差止請求者に生じた(または生じようとしている)法的な状態です。
この状態を「停止」する、ということは、この状態をなくする、という意味にしか解しようがありません。
「停止」という言葉のニュアンスが、なんとなく行為をやめさせることを意味しているような雰囲気があるので、作為は命じられないという意見が出てくるのかもしれません。
しかしそれは、「停止」(とめること)という言葉のニュアンスだけで文言解釈しており、正しい条文の読み方とはいえません。
もっとはっきりといえば、三光丸判決は、「侵害の停止」というのを、「行為の停止」というふうに、勝手に頭の中で読み替えて判断してしまったのであろうと推測できます。
そうでなかったら、この文言で、
「この文理からすれば,独占禁止法24条に基づく差止請求は,相手方に直接的な作為義務を課すことは予定していないというべき」
なんていう解釈はぜったいに出てこないと思います。
つまり、三光丸事件判決の「この文理」というのは、実は、「停止又は予防」の部分だけを指していて(あるいは、この部分だけに目が向いていて)、「侵害の」という文言には目が向いていないのだと思います。
『精選版日本国語大辞典』では、「停止」は、
「動いているもの、それまで続いてきたものがとまること。また、とめること。」
と定義されています。
一般的なニュアンスは「動いているもの・・・〔を〕とめること」でしょうし、三光丸判決もこの語感に乗ってしまったのでしょうね。
でも「停止」には、「それまで続いてきたもの〔ここでは、「侵害」〕をとめること」という意味もあるわけですし、目的語が「侵害」という状態を意味する概念である以上、目的語が「動いているもの〔相手方の作為〕」にかぎられる論理的必然性はまったくないわけです。
わたしはよくロースクールの学生さんたちにも、「目的語が何かを常に明確に意識すること」と教えているのですが、ここでも目的語が何かをきちんと意識していたら、24条の文理から作為命令が予定されていないなどという解釈にはぜったいならないはずです。
なので、この論点は、少なくとも出発点においては、24条の文言解釈だけで単純に解決する話であり、くどくどと理屈を述べる必要はないと思います。
そして、文言上は作為義務も不作為義務も課せられるとしたうえで、では実質論や制度論としてどうあるべきか、という次の段階に進むのが法律の解釈というものでしょう。
三光丸判決は、この第一段階(文言の形式的解釈)の時点で間違っている時点でアウトですし、学説も、この単純な事実を指摘せずにくどくどといろいろ述べているところに、回りくどさというか、問題点を複雑にしている感じを覚えます。
名(な)あるいは名辞の結合が名の論理形式に適合しているかどうかは、たとえば、
「4を2で割る」
というのは正しいけれど、
「ウィトゲンシュタインを2で割る」
というのは、明らかに「ウィトゲンシュタイン」と「2」という2つの名の論理形式に反しています。
これくらいはっきりした例だと、何が論理的に正しい(正確には、有意味な)文で、何が正しくない(正確には、ナンセンス)のかはすぐわかるのですが、たしかに、「侵害を停止」というのは「侵害」と「停止」の論理形式に照らして正しいのか、「停止」の意味の理解しだいでは、少し疑問がわくかもしれません。
この点について何の疑問もわかない人(「停止」が「侵害」を目的語とすることは当然であるといえるような意味で「停止」の論理形式を理解している人)は、当然のように、「侵害」を「停止」することのなかには、作為も不作為も含まれる、と考えるのでしょう。
またこのような人は、「停止」の論理形式を、「『侵害』という言葉を目的語に取ることができるような動詞」と理解するでしょう。
そして実際、「停止」が「侵害」を目的語に取っている以上、論理的にはこの読み方しかありえないはずです(そうでないというなら、24条はナンセンスな文だ、ということになってしまいます。)
これに対して、「停止」が「侵害」を目的語に取ることに多少なりとも違和感を抱く人(「停止」とは、動いているものをとめること、と理解する人)は、「侵害」を「停止」するというのはナンセンスなので、無意識に、動きのない「侵害」という言葉を頭から消し去って、動きのある「行為」あるいは「作為」という言葉に、頭の中で読み替えてしまうのでしょう。
このように、論理形式に多少の疑問がわくために誤解をまねくおそれがある文言になっているという意味では、24条の文言はあまり出来のいい日本語ではないとはいえそうです。
正直に白状すれば、わたしも割と最近まで、「三光丸判決のような24条の読み方もあるかな」と思っていました。
あるいは、刑法総論で作為犯と不作為犯は区別できないというような議論を挟まないと、三光丸判決のようになってしまうのもやむをえないのかな、と思っていました。
でも、何が目的語(「侵害」)に来ているのか、それとこの動詞(「停止」)との関係はどのようなものなのか、ということを細かく見ていくと、24条の文言からは、三光丸判決とは逆に、命じられることがあきらかだとしか言いようがない、と思うのです。
法律の条文解釈は、語感やニュアンスではなく、論理でおこなうものです。詩人は論理学者に席を譲るべきでしょう。
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