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2019年12月18日 (水)

GAFA規制論の高まりについて思う。

先日久しぶりにCPRCの国際シンポジウムに参加してきました。

テーマは「デジタル市場におけるデータ集中と競争政策」でした。

その中でパネリストの1人で前欧州委チーフエコノミストののTommaso Vallett氏が、プライバシー保護のために競争法が適切な方法であるかは、たとえば、フェイスブックを5つの「ベビー・フェイスブック」に分割してプライバシー保護が改善するかを考えてみたらいい、という趣旨のことをおっしゃっていました。

(ちなみに「ベビー・フェイスブック」という表現は、競争法をやっていると、かつてアメリカがAT&Tを分割して、分割後の各社を「ベビー・ベル」と呼んでいたことを想起させます。)

なるほどうまいことをいうなあと思いました。

カルテルは複数社が1社であるかのように行動するのがいけないので、各社ちゃんと競争しなさい、という規制です。

「みんなのペット事件」で、みんなのペットオンライン社を5つに分割したら、たぶん排他条件付取引は問題にならないでしょう。

これに対して山陽マルナカを5社に分割したら優越的地位の濫用がなくなるのかといえば、なくならないような気がします(このあたりに、優越的地位の濫用がほんらいの競争法とは異質なものであることがあらわれています)。

わたし自身はプライバシー保護に(少なくとも日本の)競争法を使うことには反対です。

理由はいろいろあります。

フェイスブック(でもグーグルでもどこでもいいですが)を5つに分割してもプライバシー保護は改善しなさそう、というのも1つの理由です。

もう1つの理由は、プライバシー保護の基準として何が望ましいのか、競争法では一義的に答えがでないことです。

別に、唯一絶対の解が1つ定まらないといけないということはありませんが、法律で規制するからには、大きな方向性くらいは示せないといけません。

先日大塚家具がヤマダ電機に買収されることが発表されたとき、ヤマダ電機の社長さんが「久美子社長の方向性はまちがっていない」というようなことをおっしゃっていましたが、「方向性はまちがっていない」というのがはたしてほめ言葉になるのかどうかはさておき、もし「方向性がまちがっている」といえば、それは完全否定だと思います。

そのような意味で、競争法はプライバシー保護の方向性を示すことができないか、きわめて不向きです。

というのは、基本的に競争法というのは、望ましい結果を一義的に企業に義務付けるのではなくて、望ましい結果は市場での自由な競争が確保されていれば実現されるという想定(あるいは信仰、または守備範囲)でできている法律です。

競争法が実現するのは、自由で公正な競争環境であるのが基本です。

競争法が一義的な結果を(多くの場合明確な根拠なく)企業に求めるのは、基本的には、筋違いだと思います。

これがまだ素朴な優越的地位の濫用とかだと、たとえば納入業者に従業員派遣させてはいけませんとか、やって良いこと悪いこと、それからその行為を禁止したときの影響などが比較的単純に予想できるので、規制してもあまり大きな弊害はないのかもしれません(わたしは、けっこう弊害があると考えていますが)。

ですがプライバシー保護は、どこまで保護するのが消費者のためになるのか、そう簡単にはわかりません。

最もわかりやすいのは、データをターゲティング広告に使う場合です。

パソコンにいつも同じような広告ばかり出て気味が悪いと感じる人もいるでしょうし、欲しいものがみつかったと喜ぶ人もいるでしょう。

消費者が提供したデータを使ってプラットフォームが広告事業でもうけることをアンフェアだとするやっかみ半分の議論もありえますが、それを措くとしても、ターゲティング広告を好む消費者と好まない消費者がいるわけで、どのような結果が望ましいのかは一義的にはいえません。

その点競争法は、市場の競争にゆだねてその結果を受け入れる、他の法律にはないというある意味で骨太な(一党派にかたよらない)法律なのですが、逆に言えば、ほんらいできるのはそこまでです。

ビッグデータにより初めて可能になるサービスもあるわけで、データ収集を禁止することと、そのようなサービスの提供を可能にすることとの間には、トレードオフの関係があります。

そのなかで、どのようなバランスをとるのが消費者の利益になるのかは、競争法の発想では結論がでないことなのではないかと思います。

どのレベルのプライバシー保護を望むかという点だけに絞れば、保護のレベルが高い方がいいことは明らかです。

この種の「品質」は、高ければ高いほど良いからです。

このように、すべての消費者が、どの結果が望ましいのかについて同意する品質についての差別化は、「垂直的差別化」といったりします。

品質が良い順から縦に並んでいるイメージですね。

「カテゴリー内で商品間の選好順位が全ての消費者に共通している場合」なんていったりします。

たとえば自動車のガソリン消費量(燃費)は、少なければすくないほどいいでしょう。

これに対して「水平的差別化」というのは、消費者によって好みに差がある差別化のことです。

たとえば自動車のデザインでも、「マツダ3」がよいという人もいれば、「レクサスLC」がいいという人もいるでしょう。

プライバシー保護と新たなサービスの提供はセットで考えないといけないので、どの組み合わせが最適なのかは消費者によってことなりうるという点で、水平的差別化的なのだといえます。

そして競争法では一般的に、多様な商品が提供されることは消費者の利益になると考えるので、水平的差別化についてとやかくいうことはありません(「マツダ3のデザインのほうを高く評価しなければならない」と強制できないように)。

というわけで、プライバシー保護は競争法の不得意な分野なのだといえます。

これに対してたとえば個人情報保護法は、個人情報保護という特定の目標のために、ぜったいこれは守らないといけないという基準を明確に定めることができます。

ふたたび自動車の例で言えば、衝突安全性の基準のようなものです。

一部の消費者が、「もっと軽量なほうがいい」「もっと安い方がいい」「もっとデザインがかっこいいほうがいい(衝突安全性はデザインを制約する傾向がある)」といっても、ともかく国の方針として、最低限これはまもらないといけないと決めてしまえる、それがいわば衝突安全性の基準であり、個人情報保護法なのです。

それをおせっかいだという人もいるかもしれませんが、ともかく決めてしまいます。

もちろん決めるときには、関係者や専門家の意見を十分に聞いて、国会で議論を重ねて、決めることになるでしょう。

これに対して、競争法が、「ともかく決めてしまう」というのはとても危険です。

競争法は規定が不明確だからというのが一番の理由ですが、もうひとつ、日本の公正取引委員会にはどのレベルのデータ保護が最適なのかを判断する知見がありません(ひょっとしたら他の役所もないかもしれませんが)。

知見がないので、仮に競争法で規制するとしても、個人情報保護法をコピーしたような内容にせざるをえません(最近のデータ保護ガイドラインのように)。

水平的差別化についてはこれまであまり競争法は口出ししてこなかったのですが、デジタルプラットフォーム規制には、そこに口出しする要素があります。

以上のことをひっくるめて、象徴的に表現すれば、「フェイスブックを5つに分割したらどうなるか」を考えるのが競争法なのだ、ということなのでしょう。

日本でも、こういう骨太の議論をする人が、もっともっと出てきてほしいと思います。

デジタルプラットフォームの国民生活における重要性にかんがみれば、必要であれば規制するのは自然な流れだとは思いますが(もちろん内容については慎重に検討すべきでしょうけれど)、ともかく、その手段として競争法を使うのは、わたしは誤りだと考えています。

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