« 2017年3月 | トップページ | 2017年5月 »

2017年4月

2017年4月21日 (金)

セット販売(バンドルディスカウント)について

昨日の競争法フォーラムの勉強会でセット販売がテーマだったので、前から読みたいと思っていた、ハーバード大学のEiner Elhauge(アイナー・エルハーギ)教授の

TYING, BUNDLED DISCOUNTS, AND THE DEATH OF THE SINGLE MONOPOLY PROFIT THEORY (2009)

という論文を読んで予習してみました。

 

Elhauge教授らしい、相変わらず切れ味鋭い論説で、私もバンドルディスカウントに対する考え方を改めたい、と思いました(宗旨替え)。

 

要点をまとめると、抱き合わせおよびバンドルディスカウントの効果には、

①商品内価格差別(Intra-Product Price Discrimination)

 

②商品間価格差別(Inter-Product Price Discrimination)

 

③個別消費者余剰の搾取(Extracting Individual Consumer Surplus)

(①~③は、いくらかの市場支配力があれば生じるので「支配力効果」(power effects)と総称)

④従たる商品市場の市場支配力増加(Increased Tied Market Power)

 

⑤主たる商品市場の市場支配力増加(Increased Tying Market Power)

(④、⑤は、従たる商品市場の相当程度のシェアの排除を要するので「シェア排除効果」(foreclosure share effects)と総称)

があるとされます。

 

そして、シカゴ学派の抱き合わせに関する「独占の梃子の否定論」(single monopoly profit theory)は、

①需要者は主たる商品に対する従たる商品の使用量を変えないこと、

 

②主たる商品と従たる商品の需要に強い正の相関性があること、

 

③主たる商品の使用量が変わらないこと、

 

④従たる商品市場の競争の程度が固定されていること、

 

⑤主たる商品市場の競争力の程度が固定されていること、

の5つすべてを前提にしてはじめて成り立つが、実際には、これらの条件がすべて成り立つことはまれであり(というより、そのうち1つでも成り立つ場合も多くない)、しかも前記5つの効果は重畳的に生じるので、バンドルディスカウントはきわめて強い排除効果を持ちうる(なので、抱き合わせを当然違法ないし当然違法類似の法理で処理する米国判例法は正しい)、とされます。

 

すなわち、

①需要者が主たる商品に対する従たる商品の使用量を変えると、商品内価格差別が生じる、

 

②主たる商品と従たる商品の需要に強い正の相関性がないと、商品間価格差別が生じる

 

③需要者が主たる商品の使用量を変える場合(たとえば、2台目、3台目のプリンターを会う場合)には、個別消費者余剰が搾取される、

 

④従たる商品市場の競争の程度が変わる前提だと、従たる商品市場の市場支配力が強化される、

 

⑤主たる商品市場の競争力の程度が変わる前提だと、主たる商品市場の市場支配力が強化される、

とされます。

 

この論文のすごいところの一つは、これまでの経済学の議論を、難しい数式を一切使わずに、単純な数値例を使うことで、きわめてわかりやすく説明しているところです。

 

たとえば、②の商品間価格差別については、

201人の需要者がいて、

 

その支払意思額が、商品A(コストはゼロ)について、0ドル、1ドル・・・200ドルと1ドルきざみであり、

 

逆に商品B(コストはゼロ)については、200ドル、199ドル・・・0ドルだとすると、

 

抱き合わせがないと商品AとBをそれぞれ100ドルにするのが利益最大化になる(それぞれ101人の需要者が購入して利益は20,200ドル)が、

 

抱き合わせをするとバンドルで200ドルにするのが利益最大化になる(201人全員がバンドルを購入し、利益は40200ドル)、

ということが示されます。

 

つまり、商品Aと商品Bへの支払意欲に相関関係がないと(上の例では、商品Aを高く評価する需要者ほど商品Bは低く評価するという負の相関関係があると)、バンドルによって消費者余剰を搾取できる、ということです。

 

いわば、セット(バンドル)の購入者について、セットでは定額としながら、商品Aと商品Bを個別に(実質的に)みれば、実質的には、個々の需要者ごとに異なる価格を設定している(だけどバンドルでは同じ額)、という理屈です(なので、商品間価格差別)。

 

またこの論文は、反トラスト法では総余剰基準ではなく消費者余剰基準を採用すべきだと強く主張します。

 

私などは、基本的にシカゴ学派からスタートしていますから、完全価格差別は総余剰を増やすので効率的だという議論がしっくりくるのですが、この論文は、その考えが甘いことをよくわからせてくれます。

 

完全価格差別が効率的だと言ってのけられるのは、「しょせん完全価格差別なんてめったに起こるものではないんだから目くじら立てることはないでしょ」という甘えがきっとあるのだろうと思います。(私はありました。)

 

でも、セット割引というのは世の中にいくらでもあるので、そんな悠長なことは言ってられません。

 

やはり、ほんとうにシビアな問題が起こっているところで、「本当にそんな、木で鼻をくくったような議論をしていていいの?」ということを、真剣に考える必要があるんだなぁと、いまさらながら考えさせられました。

 

(ただこの点については逆に、シビアな問題が生じるからこそ、「総余剰基準が正しいんだ」という議論が強まる可能性もあります。)

 

同論文によると、バンドルディスカウントを不当廉売のようにコストベースで考えるのは間違いで、コスト割れでなくても反競争的な場合は、上記5つの効果を考慮すればいくらでもある、とされます。

 

また、「ディスカウント」という言葉が値引であるかのような誤解を生むのであって、実際には、バンドルディスカウントというのは、アンバンドル価格とバンドル価格との差額であるにすぎないんだ、ともいいます(しごくもっともです)。

 

そのうえで、問題にすべきはバンドルあるいは従たる商品の実質価格がコストを下回るかどうかではなく、アンバンドル価格が、抱き合わせがなければついたであろう価格(but-for price.「ナカリセバ価格」)を上回ることなのだ、といいます。

 

したがって、(公取のバンドルディスカウントに関する検討会報告書でも採用された)Distribution Attributionテストはまちがいだ、それだと、反競争的な行為が合法になって過小規制だ、とはっきりいいます。

 

公取委の報告書についてはまたの機会に検討するとして、ともあれ、この論文は非常に説得力があります。

 

同報告書で、

「※注13 本報告書はこのような排除効果に焦点を当てるものではあるが,あるバンドル・ディスカウントが排除効果までは生じない場合であっても,バンドル・ディスカウントを介した価格差別によって消費者厚生が低下する可能性がある点も問題として捉えるべきであるとの指摘も存在することに注意が必要ではある。」

というのが、上記①~③の支配力効果(排除を前提としない効果)のことと思われます。

 

でも実際にこの論文を読むと、こんな簡単に脚注で触れて済むような問題ではないことがとてもよく理解できます。

 

というわけで、公取委は排除効果を中心に考えて、しかもDistribution Attribution(DA)テストを採用しているので、この論文ほどセット販売に厳しい立場をとることは考えられませんが、この論文をよむと、セット販売が大きな反競争性をもちうるということがわかります。

 

しかも、電気とかガスはだれでも購入するので、その広がりがとても大きくなります。

 

ほかにも、

「同等に効率的な競争者テスト」(排除者と同等に効率的な競争者でも排除されてしまうときには違法とする考え)は、まさにその行為があるために競争者が同等に効率的になれないときには過少規制になる

とか、

「抱き合わせは支払意思額の高い需要者から低い需要者に取引を移転させるので消費者余剰が減少し非効率的だ」

とか、排除行為に関する議論が頭の中でとてもきれいに整理できる記述が盛りだくさんです。

 

もちろん、実際の市場の競争や需要曲線をみないと反競争効果が生じるかどうかはわからないし、効率性を促進することもありうるので、理屈だけですべてのが片付くわけではないのですが(この論文も、バンドルディスカウントが当然違法といっているわけではなく、あくまで合理の原則で判断すべきと言っているだけです)、価格差別(メーターリング)は総余剰を増やす、というシカゴ流の単純な発想ではいけないんだ、ということはよくわかります。

 

私はかつて、川濱教授の再販の論文をよんで再販については宗旨替えした(シカゴ流の原則合法ないしは合理の原則から、ほぼ当然違法)のですが、それに匹敵するくらいの衝撃のある論文でした。

 

セット販売反対派も賛成派も、この論文を読めば何が問題か、よく理解できることでしょう。

 

そういった意味で、どちらの立場であっても、関係者は必読(という陳腐な決まり文句は好きではないですが、本当に)です。

 

たとえば、電気は最初の一単位と最後の一単位に対する支払意思額がかなり違いそう(電気がないとさすがに困るけど、最後の一単位を減らすのはたいして苦痛ではない)なので、③の個別消費者余剰の搾取効果はありそうだな、とかいった具合です。

 

ほかには、電気とガソリンのセット販売の場合、クルマにたくさん乗る人は家にあまりいない、など、個々の需要者ごとに支払意思額が異なりそうなので、②の商品間価格差別効果はけっこう生じそうだな、といったことが思いつきます(競争法フォーラムで出た質問をヒントに思いつきました)。

 

だけど、本当にそう言えるかどうかは、まさに事実認定の問題で、まったく逆の結論が正しいかもしれません。

 

それでも、どこに目をつけるべきか、ポイントは見えてきます。

 

ほかには、バンドル値引きの額(つまり、アンバンドル価格とバンドル価格の差)の大きさ自体は、反競争効果にとって決定的ではない(額が小さくても十分反競争的でありうる)といったこともこの論文では言われていて、けっこう衝撃的です。

 

(ざっくりいうと、バンドルがない場合の主たる商品の消費者余剰が従たる商品の消費者余剰に比べて十分大きければ、バンドル値引きの額が小さくても反競争効果が生じうる、とされます。)

 

さらに視点を変えると、公取委がDAテストのようなかなり甘い基準を採用しており、セット販売が事実上野放しの状態であることを前提にすれば、事業者としては、どの商品とどの商品をバンドルすれば利益が上がりそうかを予測してビジネスに生かすことができるかもしれません。

 

(さらに余談ですが、独禁法をやってると、こういう、ビジネスの目の付け所(=独占利潤の獲得方法)というのが見えてきたりします。最近では、アップルペイのビジネスモデルなんか、「そこに目を付けたかあ」と感心してしまいます。)

 

そういうわけで、この論文の立論に理屈で反論するのは非常に難しいのではないか、という気がします。

 

(この論文では、反対説に対する周到な反論も展開されていて、それがこれでもかというくらい説得力があります。)

 

ただこの論文も万全ではありません(この論文ですべての問題が解決できるわけではない)。

 

一番の問題は、アンバンドル価格が「ナカリセバ価格」を超えたらだめだといっても、では「ナカリセバ価格」をどうやって算定するのか、ということだと思います。

 

この論文では、会社の内部文書を調べたり、経済分析を使えばわかる、といっていますが、「本当にそうかなぁ」という気も正直します。

 

そういうわけで、ますます独禁法解釈に経済学が必須になってきそうです。

 

ついでにいうと、この論文のすごいところとして、見事に法学と経済学の橋渡しをしているところがあげられます。

 

たとえば、アンバンドル価格が「ナカリセバ価格」を超えたらだめだというなら、たんなる単品の高価格設定もだめだというのか、という批判に対しても、「バンドル規制は高価格設定を規制しているのではなくて、バンドルにともなう制限を問題にしているのだ」という、説得力のある反論がされています。

 

「判例はこの効果を問題視したんだ」、という経済理論に基づいた解説も見事です。

 

経済学の論文のような数式はいっさい使わず、数値例(とグラフ)だけで問題のエッセンスを伝える、という手法は、誰でもできそうで、実は経済学が心底わかっていないと怖くてできない手法なのでしょう。

 

こんな手法も、日本でまねをする法学研究者の方が出てこないかなぁと期待したりします。(私にはとうてい無理です。)

 

経済法学畑に経済モデルの数式を読んで理解できる人がとくに日本では少ないことを考えると、この、数式を使わずエッセンスを伝えるという手法はきわめて有効だと思います。

 

日本でも、セット販売に関する議論がさらに深まることを期待したいと思います。

2017年4月17日 (月)

合理的根拠と統計学の利用についてのある書籍の記述

「いわゆる健康食品に関する景品表示法及び健康増進法上の留意事項について」(平成25 年12 月24 日 消費者庁、一部改定 平成27 年1月13 日)の中に、

「体験者、体験談は存在するものの、一部の都合の良い体験談のみや体験者の都合の良いコメントのみを引用するなどして、誰でも容易に同様の効果が期待できるかのような表示がされている」

という記述がありますが、この点に関連して、

林田学『景品表示法の新制度で課徴金を受けない3つの最新広告戦略』

という本のp56以下ではこの部分を評して、

「つまり、体験談が事実として存在するとしても、都合のよい体験談やコメントばかり引用しているような場合は違反とされる。

従来、『体験談は捏造さえしなければよい」というような考え方もあったが、それだけではなく、『それが例外ではない』ことの証明も必要というわけだ。」

「たとえば、ダイエットサプリで『Aさん、2ヵ月で-10キロ』というような広告をする場合、『Aさんが本当に2ヵ月で10キロ痩せた』ことの証明だけではなく、『それが例外でない』ということの証明も必要になるのである。」

と説明されています。

しかし、ちょっと考えてみるとわかりますが、「留意事項」の、

「誰でも容易に同様の効果が期待できる」(≒誰でも2か月で10キロやせられる)

というのと、同書の、

「2か月で10キロやせられるのが例外でない」

というのとでは、まったく意味が違います。

「留意事項」の、

誰でも容易に同様の効果が期待できる」(誰でも2か月で10キロやせられる)

という基準は、文字どおりに読めば一切の例外を認めないかのようでちょっと厳しすぎますので、そこは、

「たいていの人は容易に2か月で10キロやせられる」(=まれに、2か月で10キロやせられない人がいてもよい)

と読むことにしましょう。

そして、これが事実なら、景表法上もまずは問題ないのでしょう。

しかしそれでも、同書の、

「2か月で10キロやせられるのが例外でない」

というのでOKだ、というのとはまったく違うと思います。

さらに同書の説明で問題なのは、同書は「例外ではない」というのを非常に緩やかに解している(100人中3人が10キロやせれば、10キロやせるのは「例外ではない」といえる)、と考えていることです。

つまり、同書では続けて、

「後者の『例外ではない』ことの証明は、統計学のロジックを用いることで説得力を増す。」

「たとえば、臨床試験を行い、その結果を統計的に処理したところ、図表3-3・・・のような正規分布図・・・が描け、

『-10キロはその中の95%ゾーンに入る』

という説明が可能なら、-10キロは例外とは言えないわけだ。

正規分布を前提とすると、値の95%は平均値±標準偏差×2のゾーンに入るからだ」

と説明されていることです。

ここで、「図表3-3」では、95%信頼区間の上限に-10キロが来ている、以下のような図が示されています。

Img_0939

しかし、このように-10キロが95%信頼区間の上限に来ているということは、(信頼区間から外れる5%は信頼区間の両側に2.5%ずつ存在しますから)、母集団(たとえば日本人の成人全員)のうち、このダイエット食品を食べて10キロやせる人は上位2.5%しかいない、ということです。

逆にいえば、97.5%の人は、10キロもやせない、ということです。

これでは、とうてい、「留意事項」(改)の、

「たいていの人は容易に2か月で10キロやせられる」(=まれに、2か月で10キロやせられない人もいる)

という基準はみたさないでしょう。

同書の議論は正式な医療統計学に基づくものではありませんが、そこはダイエット食品なので大目に見るとしても、ここで統計学の考えを適用するなら、むしろ、-10キロが95%信頼区間の上限に位置するのではなくて、下限に位置する必要があると思います。

そうすれば、10キロ減量できない人は母集団全体の2.5%というきわめて例外的な人として無視することが許され(統計的誤差)、

「たいていの人は容易に2か月で10キロやせられる」(=まれに、2か月で10キロやせられない人もいる)

という「留意事項」(改)の基準も満たし、統計学により説得力を増すことができるといえます。

同書の著者は、

「統計学の書物を読み漁ったり、ハーバード大学メディカルスクールのオンラインコースを受講したりして、統計学や医療統計の知識を得た」(p59)

のだそうですが、ちょっと頼りないですね。

事業者のみなさんは、このようなアドバイスを真に受けないよう、気をつけましょう。

ただ現実には、このようなアドバイスでも、ことダイエット食品に関しては、結論は正しい、ということはあるかもしれません。

というのは、ダイエット食品で10キロもやせることはそもそもありえないので、とてもゆるい同書の基準(-10キロが信頼区間の上限に来る基準)であっても満たさないため、

「統計学のロジックを用いることで説得力を増す」

ことに成功することはまずありえないからです。

でもだからといって、同書の理屈が正しいことになるわけではないことも、明らかでしょう。

2017年4月 4日 (火)

トンネル会社規制の「相当部分」は何の相当部分か

トンネル会社規制に関する下請法2条9項では、

A社(本来の親事業者)→B社(トンネル会社)→C社(下請事業者)

という想定で補足しながら引用すると、

「〔①〕事業者〔=A社〕から役員の任免、業務の執行又は存立について支配を受け、

かつ、

〔②〕その事業者〔=A社〕から製造委託等を受ける法人たる事業者〔=B社〕が、

〔③〕その製造委託等に係る製造、修理、作成又は提供の行為の全部又は相当部分について再委託をする場合・・・において、

再委託を受ける事業者〔=C社〕が、・・・当該事業者〔=A社〕から直接製造委託等を受けるものとすれば前項各号〔=下請事業者の定義規定〕のいずれかに該当することとなる事業者であるときは、

この法律の適用については、再委託をする事業者〔=B社〕は親事業者と、再委託を受ける事業者〔=C社〕は下請事業者とみなす。」

と規定されています。

さて、ここで問題は、③の

「その製造委託等に係る製造、修理、作成又は提供の行為の全部又は相当部分

というのが、何の「全部又は相当部分」なのか、つまり、

「その製造委託等に係る製造、修理、作成又は提供の行為」

とは何なのか、さらに突きつめて言えば、「その製造委託等」の

「そ」

とは何を指すのか、という問題です。

考え方としては、

①A社がB社に委託する製造委託等を、全部まとめて考える

②A社がB社に委託する製造委託等を、商品ごとにまとめて考える

③A社がB社に委託する製造委託等を、個別の発注ごとに考える

というものが考えられそうです。

(①と②は何を基準に「まとめ」るのかが問題となりますが、あとで説明します。)

この問題については下請法講習テキストをみても、

「(イ) 親会社からの下請取引の全部又は相当部分について再委託する場合(例えば,親会社から受けた委託の額又は量の50%以上を再委託」

と説明してあるくらいで(平成28年11月版15頁)、「なんとなく①(全部まとめる)かなあ」と思えるくらいで、決定打に欠けます。

しかも、条文を文字通りに読むと、③(個別の発注ごとに見る)も、ありえなくはないようにもみえます。

ですが、わたしは①(全部まとめる)が正しいと考えています。

というのは、それが、トンネル会社規制の趣旨(脱法行為の禁止)からすれば、いちばん素直だからです。

(というか、当たり前すぎて論点となりうることすら、誰も気づいていないかもしれない、というレベルの問題かもしれません。)

条文の文言上も、そんなに無理はないと思われます。

なのでこの説(①.全部まとめて考える)では、

「そ」=A社がB社に委託したすべて(の製造委託等)

とよむわけです。

たとえば粕渕他編著『下請法の実務(第3版)』p73でも、

「例えば、介在する事業者が、一定期間に部品100個の製造委託を10件受け、そのうち6件について再委託するような場合や、

同一部品1000個の製造委託を受け、そのうち600個を再委託するような場合は、

介在する事業者が受けた製造委託等の6割を再委託しているのであるから、

『相当部分』を再委託したものと評価されることとなる」

というように、「一定期間」でまとめることを想定した説明がなされているので、少なくとも③(個別発注ごとに考える)はありえないことになりそうです。

ちょっと悩ましいのは、それに続けて、

「また、介在する事業者が単価の異なる複数の種類の部品1000個の製造委託を一の発注で受けたような場合は、個数で判断することは困難であるから、金額に見積もって50%に達するか否かを判断することになろう。」

と、「一の発注」ごと、つまり個別の発注ごとに過半数かどうかをみるような説明がされている点です。

しかしこれは、A社とB社の間にその1件の発注しかなかったような場合を想定して説明しているとみるべきで、複数の発注をまとめるべきかどうかというここでの問題とは無関係である、と読むべきでしょう。

なお当たり前ですが、粕渕編ではB社が1000個を受注してそのうち600個を再委託する、というような例で説明されていますが、もちろん、B社が受注した製造委託の工程の一部を再委託するような場合も、トンネル会社規制が及びます。

たとえば、A社がB社に完成品1000個の製造を発注し、B社がC社に、その完成品のためユニット1000個を発注し(完成品1個に1ユニットを使う)、そのユニットの下請代金が完成品の下請代金の過半数であれば、トンネル会社規制にひっかかります。

というのは、条文上、

「その製造委託等に係る製造、修理、作成又は提供の行為の全部又は相当部分」

とされていて、「行為」の相当部分かどうかが問題だからです。

さて、①(全部まとめる)と、②(商品ごとにまとめる)では、どちらを取るべきでしょうか。

この問題については、

池田毅「連載講座 下請法の実務に明るい弁護士による「ケーススタディ下請法」 第3回 下請法の適用範囲②」公正取引788号54頁

という論文が、論点を、

「(ⅰ)A〔=トンネル会社〕は複数の商品を発注しているところ、

その全体に対する再委託の割合をみるべきか、それとも

個別の商品ごとに再委託の割合が50%以上となるかをみるべきか」(55頁)

という問題と位置づけたうえで、

「たとえばメーカーブランド品(NB品)とプライベートブランド品(PB品)を同一の事業者から購入している場合に、これらが同一発注で注文されることもあるが、

前者については下請法は適用されないが、後者については下請法が適用される。

このように下請法の適否が商品ごとに判断されることからすれば、・・・

商品ごとに〔50%以上の再委託の〕基準の該当性を評価すべきように思われる。」

と論じられています。

しかし、この理屈はおかしいと思います。

NB品に下請法が適用されず、PB品に適用されない理由は、たんに、NB品は製造委託に該当せず(と言っていいかどうかも疑問ですが、それは措きます)、PB品は製造委託に該当するからでしょう。

それはいいのですが、このような、

「下請法の適否が商品ごとに判断される」(→あたりまえ)

ということから、

商品ごとに〔50%以上の再委託の〕基準の該当性を評価すべき」

という結論には、論理的にはつながらないと思います。

つまり、

「下請法の適否が商品ごとに判断される」(→あたりまえ)

ということからは、

「下請法の適用される取引であっても、個別に考える」

という結論も、

「下請法の適用される取引は、まとめて考える」

という結論も、まったく同様に導くことが可能です。

別の切り口からいうと、NB商品とPB商品を1つの発注書で発注してもPB商品にだけ下請法が適用されるのは、「下請法の適否が商品ごとに判断される」からであるというよりも、製造委託に該当するところのPB商品に下請法が適用されるから、に過ぎません(あたりまえすぎて、自分でも何を言っているのかわからなくなりそうですが)。

つまり、「下請法の適否が商品ごとに判断される」というルールからは、下請法対象取引はまとめるか、個別に考えるかという問題の答えは出ない(論理的な関係がない)わけです。

下請法上あたりまえ(当然の前提)のことから、特定の結論を導くのは無理があります。

(ちなみに、2条9項の条文も、

「・・・その事業者〔=A社〕から製造委託等を受ける法人たる事業者〔=B社〕が、その製造委託等に係る製造、修理、作成又は提供の行為の全部又は相当部分について再委託をする場合」

とされているので、A社からB社への発注も、B社からC社への発注も、どちらも下請法の対象である製造委託等である必要があります。)

それに、たとえば10種類の商品を再委託しているうちの1種類でも過半数にいくとトンネル会社になるとすれば、1種類でも丸投げすると、(その種類についてだけではありますが)トンネル会社となってしまい、厳しすぎるでしょう。

公取の先例である東陶メンテナンスに対する勧告の担当者解説をみると、

「東陶メンテナンスは、東陶機器から委託を受けた東陶製品に係る無償修理を自社で行うほか、当該修理の約8割を全国各都道府県に所在するサービス代行店・・・に委託している。」(公正取引670号58頁)

ということで、「無償修理」は一種類だったから全体で8割だと判断したともいえますが(ぜんぶまとめて8割であればいいと当然のように考えていた可能性も高いですが)、仮に、修理の内容にいろいろあったとしても、きっとぜんぶまとめて1つと見たのだろうと思います。

というのは、ここでの「東陶機器」には、「温泉洗浄便座、水栓、衛生陶器等」(p57)と、いろいろなものがあったようであり、そうすると、それぞれ別の修理だと評価できた可能性もあったわけで(便座と水栓の修理は別物っぽい)、それを何の断りもなくひとまとめにしている以上、やはり、商品や役務の内容ごとに区々に区切っている考え方はとられていないと思われるのです。

もう一つ例をあげると、

辻吉彦『詳解下請代金支払遅延等防止法(改訂版)』

では、公取委発表資料(平成3年6月6日発表「平成2年度における下請法の運用状況及び下請代金の支払状況」)のなかに、「トンネル会社の支払遅延」として、

「・・・当該子会社〔トンネル会社〕は、・・・E社〔ほんらいの親事業者〕から受けた製造委託の約60パーセントを他の事業者に再委託していることから下請法2条5項〔現行9項〕の規定により親事業者とみなされる、いわゆるトンネル会社に該当する・・・」(p34)

という記述があることが紹介されており、ここでも、委託を受けたすべての製造委託を基準にみている様子がうかがえます。

ところが、さらに悩ましいことをいっているのが、

小倉正夫(公取委事務局取引部下請課長)「わかりやすい下請法(2)-下請法の適用範囲-」公正取引393号15頁

で、そこでは、トンネル会社の判断基準は、

「イ 相当部分を他の事業者に再委託するについての相当部分とは、特定の製造委託又は修理委託の額又は量の50%以上であること」

と解説されていることです。

この、「特定の」というのがまさに商品ごとという意味ではないか?というようにも(見ようと思えば)みえてくるわけですが、この「特定の」には、深い意味はないと割り切るほかないでしょう。

この論文でも「特定の」の意味については何ら深掘りされておらず、言いっぱなしです。

きっと深い考えもなく、筆が滑ったのでしょう。

国会議事録も見てみましたが、あいにく条文の解釈のような細かい話はありませんでした。

トンネル会社規制は昭和40年改正で社会党の提案で入ったものなのですが、そこでの議論は、

昭和40年2月16日の中小企業政策審議会の下請小委員会の中間答申でトンネル会社の問題については、『今後、さらに実態把握につとめ、法改正の必要があるか否かについて検討すべき」とされているが、それでは生ぬるい!

といったものばかりが目立ちます。

唯一、条文の解釈論の参考になりそうなのは、昭和40年5月12日参議院商工委員会(議事録35号)の影山衛司中小企業庁次長の答弁です。

大半は社会党からの「生ぬるい」「実態解明してからとかいうのは勉強不足だ」という突き上げに対する釈明ですが、その中で、

「・・・また〔トンネル会社の〕規定のしかたがやはり非常にむずかしいわけでございます。

社会党のほうの改正案にございますような「資本的又は人的関係において支配を受けており、」というような規定をいたしても、それでは資本的に何%持っておればこれが支配関係にあるかというようなことになりますと、かりに五〇%ときめますと、これは四九%だということになりまして、なかなか脱法を防ぐこともむずかしいというようなことでございます。」

という発言があります。

まあこのくらいしか議論されていないわけですし、全体の議論のトーンとしては、脱法(下請法の資本金要件をかいくぐる)を防ぐという発想は国会の議論でも色濃く出ています。

そうすると、商品ごとにとらえて1個でも過半ならトンネル会社だというのは、やっぱり厳しすぎると思います。

当局もそこまで厳しいことは言っていないようですし、私はそれでいい(①の全部まとめる説が妥当)と思います。

では全部まとめるとして、どの範囲でまとめるか(具体的にはどの期間でまとめるか)という問題があります。

さすがに、トンネル会社ができてからの全部の取引をまとめるというのは、(それでも運用は回っていくのかもしれませんが)法解釈としてかなりためらわれます。

この点について前記池田論文では、

「ある一定の期間(たとえば毎月末締め)には、その当該支払対象期間についての再委託の割合によりトンネル会社規制の適否を判断するのが妥当」(p55)

という考え方が示され、なので、繁忙期だけ5割以上になる場合でも、その繁忙期についてはトンネル会社規制がおよぶ、とされています。

これはこれで一つの考え方ですが、私はこの点についても、そこまで厳しく言わなくてもいいんじゃないかと思います。

あえていえば、過去1年くらいさかのぼって50%以上でなければいいんじゃないでしょうか。

もしそれよりも近い時期に再委託が急に増えたりとか言った事情があるなら、ケースバイケースで柔軟に考えるというのでいいのでしょう。

いずれにせよ、はっきりした基準はありませんし、トンネル会社規制というのはそれくらいおおらかな解釈で回っていくんだと思います。

ともあれ、こういう細かい議論をあえて論文に書いてもらうのは、議論の蓄積のためにはとても貴重なことであり、その意味で池田論文は貴重だと思います。

当たり障りのないことだけ書いてたのでは、本当に知りたいことは何も書かれていない、ということになりかねません。

2017年4月 2日 (日)

日経朝刊「デジタルカルテルの挑戦状」という記事について

今朝(4月2日)の日経朝刊に、

「デジタルカルテルの挑戦状 AIが価格調整 法的責任は」

という記事がありました。

見出しを見たときは、「お~、いよいよ来たかぁ」と思いましたが、中身を読むと「あれれ??」という感じでした。

というのは、そこで紹介されているウーバーの訴訟が、まったく的外れ(見出しとかみ合っていない)だったからです。

ウーバーの事件というのは、この記事によると、ウーバーが同社の価格アルゴリズム(AI?)にしたがってウーバーの運転手(ウーバーの社員ではない)に価格を提示するのが、独立事業者であるウーバーの運転手の価格カルテルを促している、というものだそうです。

でもこの事件の本質は、ウーバーの価格が何らかのアルゴリズムで算定されているかどうかとか、そのアルゴリズムがAIを使ったものなのか、とは何の関係もありません。

ウーバーの価格がアルゴリズムを使ったものでなく、たとえばウーバーの経理部長が鉛筆なめなめ、「この時間帯はこれくらいの料金がいいかなぁ」と決めたものであっても、独禁法の分析の構図はまったく同じです。

「アルゴリズム」や「AI」とは、何の関係もありません。

したがって、

「同社のアルゴリズムは個人事業主間の反競争的な協調行為を促す可能性がある」(池田毅弁護士)

というコメントも、この記事の本来のテーマとの関係では的外れです。

さらに続けて、ちょっと長いですが興味深いので引用すると、

「『在庫量を適正化するために、AIでサプライチェーン全体を最適化するシステムを導入した場合、独禁法上の問題はないでしょうか』。池田弁護士は昨年、ある企業から相談を受けた。

余剰在庫を減らす目的で商品や部品を調達する企業をネットワークで結びAIに発注などを管理させる。するとこれらの企業に在庫を減らすために値下げ販売する誘因が働かなくなり、結果として価格は高止まりする。最終的に消費者への販売価格に転嫁される――こんなメカニズムが働く可能性があるという。」

なんだそうです。

これなんかも、なぜ問題なのか、私には理解できません。

というのは、在庫削減はあきらかに効率性を向上させるからです。

「こんなメカニズムが働く可能性」を問題視するというのは、あたかも、事業者が見込み違いの発注をした結果生じるたたき売りによって消費者が享受するタナボタ的な利益も独禁法上保護すべきであるというかのようですが、それは(競争法の守備範囲である)競争により消費者が享受する利益とは別次元の話です。

それにこのシステムでは、このサプライチェーンに参加する企業の競争的行動を何ら制約していません。

在庫リスクと独禁法といえば、経済学的には、リスク回避的な販売店のリスクを再販売価格拘束などさまざまな垂直制限によりメーカーが引き受けることで、販売店がより多くの量を販売してくれる(十分な在庫を積んでくれる)、という理論が思い出されます(Deneckere, R., Marvel, H.P., Peck, J. ‘Demand Uncertainty and Price Maintenance: Markdowns as Destructive Competition’, The American Economic Review (1997) 87(4): 619-641)。

より一般的に、垂直制限によりリスク回避的な取引当事者からリスク中立的な取引当事者にリスクを移転することが効率的であることは、学部レベルの経済学の教科書にも載っていることであり、いわば経済学の常識です。

また根本的な話として、この例も、AIだからどうのこうのという問題ではありません。

(実際の相談の詳細をそのまま記事にはできないので、実は大事な事実が記事では端折られてるのかもしれませんが。)

AIによるカルテルというので思いつく(おそらく多くの独禁法弁護士が想像する)のは、たとえば、ウーバーのような会社がもう1社あって、いずれもAIで価格設定して、AIがお互いの価格を読みあうために、結果的に協調的な結果が意思の連絡なくできてしまうのではないか、という場面です。

ウーバーのケースは、この記事にもあるように、独立事業者であるドライバー間の協調を促しているという構図でちょっと複雑なので、もっと単純化すれば、タクシー会社が2社あって、AIで価格設定しているために、お互いの価格を読みあって、結果的に協調的な価格になる、というような場合です。

記事も、昨年10月のOECD文書が、

「自ら学習して他の機械と協調するAIが介在する場合は、企業間の価格調整の意図の立証が非常に困難」

と指摘したことに触れていますが、ここでの「企業間」というのが、上の例では「タクシー会社間」ということです。

決してOECD文書は、ウーバー事件の「ドライバー間」の価格調整のような話をしているわけではありません。

記事によると

「ウーバーの価格は混雑時には平時の最大8倍に跳ね上がることもある」

とされていますが、たしかにこれはこれで問題視する向きがあるかもしれませんが(私は、これは単に需給関係を反映しただけなので、競争法上は問題視すべきでないと思います)、カルテルとは何の関係もない問題です。

これに近い話としては、AIを使うと、消費者ごとの支払い意欲をAIが予測して、ぎりぎりまで高い価格を設定できてしまう、という完全価格差別が生じる、ということが現に起こっています。

たとえば(以前もどこかで書きましたが)、あるアメリカの航空会社では、エコノミーからビジネスにアップグレードできる価格を、どうやら過去のその顧客のアップグレード歴に基づいて算定しているらしいです。

そのため繰り返しアップグレードしていると、「こいつはたくさん払うやつだ」(支払い意欲が高い)と思われて、高めの価格が設定される、という仕組みらしいです。

AIとビッグデータが加われば、それこそ、年齢や性別などさまざまな情報を使って価格差別をすることがありえます。

ちょっと違いますが、聞いた話では、JRの駅の自販機は購入客の性別なんかを識別して、たとえば男性ならコーヒー飲料の種類をたくさんならべる、ということができるものがあるらしいです。

これを価格差別に利用することも、やろうと思えばできるはずです。

経済学的な議論としては、価格差別は総余剰を増すので独禁法で禁止するべきではありませんが、一消費者としては、たしかに納得いかないものがあります。

ウーバーの事件は、どちらかというとこの価格差別(顧客ごとではなく時間や場所ごと)に近いともいえますし、時間帯や場所が違うなかで価格に差を設けるのはそもそも市場が違うのだから価格差別(=同じ市場での価格差)の問題ですらなく、たんに需要に合わせて価格が調整されている、しごくまともな市場の話に過ぎないわけです。

それが問題ににされているのは、形式的に、ウーバーの運転手が同社の従業員ではないためです。

アメリカは独立事業者間の合意は当然違法で一気に厳しくなるので、どの範囲で一つの事業者といえるのかはとても大きな問題です。

イメージとしては、コンビニの本部がフランチャイジーに価格の拘束をしたら、フランチャイジー間の協調を促進したといわれかねない、というくらいの話です。

でも日本の場合はそのあたりかなりおおらかなので、たとえば2つのセブンイレブンの店舗の価格を本部が拘束したからといって、当然違法にはならないことはもちろん、ひょっとしたら、「セブンイレブンは全体で一つの競争単位だ」という判断にすらなりかねません(ガイドラインの建前では、そうではありませんので、あくまでホンネレベルでの話ですが)。

「コンビニチェーンは全体で一つの競争単位だ」という発想が色濃く見えたのが、ファミリーマートとサンクスの統合案件です。

あれなども、各店舗が独立の競争単位だという発想から公取がスタートすれば、あそこまで審査が長引くこともなかったはずです。

ともあれ、ウーバーがカルテルだといわれるのは以上のような米国の特殊事情があるわけで、AIとは何の関係もありません。

独禁法は形に見えない競争というものを扱うためか、目新しい事件が起きるとこういう勘違いが起こりがちです。

誰と誰が競争しているのか、どの市場での競争がどのように阻害されているのかを、きちんと見極めることが重要です。

« 2017年3月 | トップページ | 2017年5月 »

フォト
無料ブログはココログ