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2016年5月 7日 (土)

トリンコ判決の位置づけ

滝川敏明「競争者排除行為の違法認定基準(上)」(公正取引671号・2006年)

という論文に、Trinko判決の評価として、

「最高裁も、『短期的犠牲テスト』を単独行為全体に適用することを示唆する意見をTrinko判決において表明した。

Trinko判決において最高裁は、それまでの代表的単独行為判決であるAspen判決を再解釈して、アスペン(スキーゲレンデ会社)の取引拒絶(隣接ゲレンデ企業との共通リフト券発行の停止)の違法性は、アスペンが『短期的利益を犠牲にして、反競争的目的を達成する意欲を示した」(540U.S. 398, 409)ので、認められると表明した。」

「従前の解釈では、それまで継続していた取引をアスペンが合理的理由なく停止した『行為変化』に不当性を認める見方が一般的であった。

これに対し、Trinko判決の見方では、行為変化の事実ではなく、それまで取引(共通リフト券発行)によって利益をあげていた(自由意思により取引したのだから利益になる取引である)ものを、取引停止によって『短期的利益を放棄した』場合に排他行為の不当性が認められる。

この論理によると、新規取引をすべて拒絶する場合であっても、短期的犠牲をこうむる場合には違法性を推定させる。」(25~26頁)

と論じられています。

たしかにアスペン事件では行為が変化したことがポイントだというのはよくいわれることなので、ひょっとしたら上記引用部分の評価が一般的なのかもしれませんが、判決原文をよむと、「再解釈」というほどのものなのか、私は疑問に思います。

つまり、上記論文がのべている、Trinko事件判決でAspen判決に触れた該当部分は、

「The unilateral termination of a voluntary (and thus presumably profitable) course of dealing suggested a willingness to forsake short-term profits to achieve an anticompetitive end. Ibid

のことと思われます(409頁)。

Ibidはここではアスペン判決の610~611頁を指しているので、アスペン判決のその部分をみると、たしかに、いままで自発的にやっていた行為をやめたことが縷々述べられているのですが、最後に、

「Thus the evidence supports an inference that Ski Co. was not motivated by efficiency concerns and that it was willing to sacrifice short-run benefits and consumer goodwill in exchange for a perceived long-run impact on its smaller rival.」

と締めくくられています。

ここでの、「short-run benefits」と、トリンコ判決の「short-term profits」は同じものでしょう。

つまり、短期利益の犠牲というのはトリンコ判決が言い始めたものではなくて、アスペン判決ですでに言われていたのです。

たしかに、どこに力点を置くかという点では、アスペン判決は短期利益の犠牲に力点を置いているようにはみえないので、そこに力点を置いたという意味では、トリンコ判決はアスペン判決を「再解釈」したといえるのかもしれません。

しかし、わたしがこの論文でもっと気になるのは、なんだか不当性の理由(なぜその行為が悪いのか)と、不当性の基準(どの行為を違法とするのか)が、ごっちゃに議論されていようにみえるところです。

つまり、同論文でも「短期的犠牲テスト」と呼ばれている、排他行為全般に関するテストは、「テスト」というくらいですから、違法と適法を分ける基準として議論されているはずです。

これに対して上記引用部分で、

「これに対し、Trinko判決の見方では、行為変化の事実ではなく、それまで取引(共通リフト券発行)によって利益をあげていた(自由意思により取引したのだから利益になる取引である)ものを、取引停止によって『短期的利益を放棄した』場合に排他行為の不当性が認められる。」

と述べている部分は、「違法性」ではなく「不当性」という言葉を使っているせいかもしれませんが、そのような排他行為が悪い理由(非難の根拠)を述べているように、私には思われて仕方ないのです。

その前の導入部分の、

「従前の解釈では、それまで継続していた取引をアスペンが合理的理由なく停止した『行為変化』に不当性を認める見方が一般的であった。」

という問題意識(問題設定)をみても、その行為が悪い理由(非難の根拠)が議論の土俵のようにみえます。

たとえば、高速道路の制限速度が100キロなのは、それを超えると事故の可能性が高まるからです。(非難の根拠)

これに対して、制限速度100キロの高速道路で、違法かどうかの基準は「時速100キロ」です。

どうも、上記論文ではこの2つの区別が明確に意識されずに論じられているような気がしてなりません。

とくに排除行為の違法性基準の議論は、薄皮を一枚ずつ剥いていくような、あるいは、遺跡を発掘するときに地表をすこしずつ剥いでいくような、とても繊細な論理操作が必要なような気がしています。

(経済学者の方はこのあたりが数式でズバッと分かるんだろうな、と想像するととてもうらやましいです。)

なので、ちょっとした論理展開のほころびが、とんでもない間違いにつながるような気がするのです。

トリンコ判決の読み方は私の理解不足かもしれませんが、排除行為の考えかたについては、じっくりと考えてみたいと思います。

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