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2014年2月

2014年2月28日 (金)

特許の国際消尽に関する中山信弘『特許法(第2版)』の気になる記述

中山先生の『特許法(第2版)』のp406に、

「しかし少なくとも言えることは、並行輸入を禁止できるということは、とりもなおさず当該商品に関する特許権を用いた国際的市場分割を認めるということであり、それは国際カルテルによる市場分割に類似した経済効果があり、権利者側に対して内外価格差による超過利潤(市場を分割することによって得られる利潤)の獲得を是認するということを意味している。」

という記述があります。

中山先生は、「少なくとも言えることは」とおっしゃっていますが、しかし、独禁法の立場からいうと、そのようなことは少しも言えないと思います。

並行輸入の禁止は(特許によって禁止する場合に限りません)、同一メーカーによる地理的分割の話であって、純粋なブランド内競争の制限の話です。

これに対して、国際カルテルによる市場分割は、複数のメーカーが地理的に市場を分割する(住み分ける)ということなので、ブランド間競争の制限の話です。

この2つは競争法的にも経済的にもまったく別のものであり、およそ「類似した経済効果」とはいえません。

別の言い方をすれば、国際カルテルの場合に問題になるのは、「内外価格差による超過利潤」ではなくて、競争者間で競争が制限されることによる超過利潤です。国内でも海外でも(競争が制限されるために)価格が高くて、結果的に内外価格差がなくっても、国際カルテルは問題です。

もう一つ気になるのは、その直前の

「並行輸入を認めた場合と認めない場合の効果、特に経済効果については、必ずしも明らかにされていない。」

という記述で、そこでは、(今やアベノミクスのブレインとして超有名人となられた)浜田宏一イェール大学教授の

「特許権による並行輸入差止めのぜひについて-経済学的考察」ジュリスト1094号(1996)73頁

が引用されています。

ただ、同論文で浜田先生は、並行輸入の効果を短期的効果(静的な資源の効率的分配)と長期的効果(動的な発明のインセンティブ)に分けて、そのうち短期的効果については、

「短期的な世界各国民の経済厚生は、多くの場合に、並行輸入によって上昇する蓋然性が強いことがわかる。例外的に、並行輸入を許すことによりかえって製造業者の世界全体に対する供給量が減少してしまう場合には、反対のことが起こるが、その様なケースはほとんど現実的でない。」

とおっしゃっています。

経済学では、短期的効果のほうは比較的単純なモデルで並行輸入が厚生を増すことが示せますが、長期的効果については並行輸入が絡まない文脈ですら議論百出(同論文でも、薬品科学等以外では特許保護の長期的効果ははっきりしないというのが一般的とする先行研究を引用しています。)であり、まして並行輸入の長期的効果などは、まず永久に経済学では答えはでないのではないか、という気がします。

なので、経済学の素人である私の目から見ると、浜田先生の論文は、かなりはっきりと、並行輸入は厚生を増大させるといっているようにみえます。

感覚的にも、並行輸入が許される場合と許されない場合で、企業の研究開発のインセンティブがどれほど違うのかというと、それほど違わないのではないか、という気がします。

中山先生の本の国際消尽の議論をながめると、この国際消尽の論点については、知財の分野で取り上げられることが多いものの、競争法がもっと貢献できるのではないか、という気がします。

もっともっと、競争法の世界で国際消尽の議論が盛り上がってほしいと思います(ただ、国際消尽は否定する方向で世界的にはほぼ決着がついているので、いまさら議論は盛り上がらないのかもしれません)。

最後に、ついでに浜田先生の論文のポイントをメモしておくと、以下の通りです。

①差別価格があるために生産量が増える(=厚生が増す)ためには、差別価格が設定されない場合には一方の市場では製品が販売されないとか、需要曲線が甚だしく凸だとかいった、かなり強い仮定が必要である。

②統一価格で生産量が減りやすいケースとして、規模の経済性が強い場合(医薬品など)がある、

③並行輸入品からの競争のないときは、当該産業全体が明示的ないし暗黙にカルテル的な価格を結んでいる可能背がある。

④並行輸入が持つ競争財の価格へのスピル・オーバー効果(ノルディカが安くなればロシニョールも安くなる)がもたらす便益は、一財の市場の分析よりもはるかに大きい。

2014年2月20日 (木)

効率的事業者が非効率的な競争者を保護するインセンティブ

独禁法では、独占的な企業が弱小の競争者をあの手この手を使って排除することは、私的独占などの問題になります。

また、特に不当廉売などの文脈では、非効率的な事業者でも市場にとどまっていた方が、いないよりは競争圧力になっていいんだ、ということが、同等に効率的な事業者基準に対する批判として言われたりします。

しかし世の中には、独占的企業が弱小競争者を排除したいと考えるような場合ばかりではありません。

つまり、弱小でもそのまま市場に残ってくれた方が、競争者にとってもありがたい、ということがあります。

例えば、非効率的な事業者が市場から退出すると、その退出により空いたスペースを狙って、より効率的な事業者が新規参入してくるおそれがあるような場合です。

「スペース」というのは比喩的な表現ですが、実際に、たとえばお店の陳列スペースだったりすることもあるでしょう。

既存事業者が退出しようとしなかろうと、効率的な事業者であれば参入するのであるから、関係ないのだ、というのは、単純な理屈としてはそのとおりなのですが、実際の世の中ではそこまで単純ではないこともある、ということです。

その原因は、顧客のたんなる(経済的には不合理な)惰性かもしれません。

一般的な言い方をすれば、4社体制なら4社体制、という長年続いていた業界の秩序が乱れると、一気に競争的になるということがある(少なくとも既存事業者はそのように信じている)ということがあり得る、ということです。

さて、以上のようなことが起こり得るということは、独禁法上どのような意味を持つのでしょう。

まず、独占的企業が、新規参入を嫌って、非効率的な競争者をあえて生きながらえさせる(場合によっては資金援助などをする)ということが、新規参入を試みようとしている企業を排除しており私的独占だ、という理屈が考えられますが、さすがに無理でしょう。競争者を助けていることが潜在的競争者の排除になるというのは、因果関係が遠すぎます。

あるいは、破綻企業の抗弁を認めるべきかどうか、という判断には上述のような現実が影響するかもしれません。

つまり、破綻企業の抗弁は、合併を認めないと(単に対象企業が破綻するというだけでなく)対象企業の資産が市場から退出してしまって市場が非競争的になる、ということろに正当性の裏付けがあります。

ところが、非効率的な対象会社(破綻に瀕しているくらいですから非効率的なことが多いでしょう)なのであれば、むしろ退出した方が、その空いたスペースを狙って新規参入が生じる、ということがあるかもしれません。

ただ、そのように不確実な将来の予測に基づいて企業結合の可否を判断するというのは、結構大変なことだろうと思われます。

別の文脈では、例えば企業結合に反対するかどうかを公取委から競合他社に尋ねた場合に、当該企業結合が認められた方が、対象会社である非効率的な競争者が市場にとどまることになるので、競合他社が合併に賛成する、ということがあるかもしれません。

なので、このような場合の競合他社の賛成意見は割り引いて考えないといけない、ということになります。

現実の世の中では、実に様々なことが起こり得るものです。

2014年2月19日 (水)

再販売価格拘束における「拘束」と公正競争阻害性の関係

再販売価格拘束の排除措置命令においては、通常、違反者の商品が市場で人気があったとか、指名買いする消費者もいたとか、小売店は品揃えの観点から特に当該商品を必要としていたとか、違反者の市場シェアが高いとかいった事実が認定されます。

これらの事実の持つ意味合いについては、従来、「拘束」が実効性をもって行われているか、という、「拘束」の要素として位置付ける文献が多かったような気がします(例えば『注釈独占禁止法』463頁)。

私は、これは常々、拘束の問題ではなくて、公正競争阻害性の問題ではないかと考えていましたが、菅久他『独占禁止法』(以下「赤本」)148頁では、私の考えと同様、これらを公正競争阻害性の問題と位置付けています。

「拘束」というのは相手を縛ることなので、市場シェアが高いとかは、間接的には関係あるかもしれませんが、やはり日本語の問題として、直接的には関係ないと思います。

その意味で、赤本でまっとうな解釈が示されたことは、大変心強い限りです。

また、赤本p148では、

「このような〔和光堂事件の〕裁判所の判断は、拘束の対象となった商品がブランド内市場を形成しており、・・・」

と、単一ブランドからなる市場を想定しているように読め、白石先生などのお考えに近く、私も、準備書面で「ブランド内市場」という言葉を使うのは抵抗がありますが(笑)、心情的には強いシンパシーを感じます。

指名買い等の事実を拘束の要件であるかのように論じる『注釈』のような立場は、拘束は合意でも、再販を破った時の不利益でも、守った時の利益でも、なんでもいい、といっている流通取引慣行ガイドラインの立場とも整合的でないと思います。

例えば、多額のリベートを提供することによって再販価格拘束をして値引きを禁じたために売上が10分の1に落ちた、というようなケースを考えると、拘束はあるけれど公正競争阻害性はない(と言い切れるかはさておき)、と整理するほうがすっきりしていると思います。

ただし、赤本の記述にも気になるところがあって、p147の公正競争阻害性の説明で、

「再販売価格の拘束が実効性をもって行われると、取引相手である販売業者間の競争は必然的に制限される。」

とされています。

「必然的に」というのは、言い過ぎではないでしょうか。

競争が必然的制限されるというと、他に救いようがなくなり、上述の、売上が10分の1に落ちたような場合まで違法とせざるをえないような気がします。

そういう場合も違法でいいんだという考えも一つの割り切りでしょうが、私は、そういう場合は競合品への乗り換えが十分に起こっているのだから、公正競争阻害性がないといってもいい(少なくとも、ないといえる場合もある)のではないかと考えています。

それと、これは言葉の問題かもしれませんが、「必然的に」といってしまうと、例えば、

「テリトリー制が実効性をもって行われると、取引相手である販売業者間の競争は必然的に制限される。」

とか、

「一店一帳合制が実効性をもって行われると、取引相手である販売業者間の競争は必然的に制限される。」

とか、

「横流し禁止が実効性をもって行われると、取引相手である販売業者間の競争は必然的に制限される。」

より一般的には、

「販売業者の販売行為に対する拘束が実効性をもって行われると、取引相手である販売業者間の競争は必然的に制限される。」

という理屈もあり得ることにはならないのでしょうか。

あるいは、この部分には実は深い意味はなくって、要するに、

「販売事業者の競争制限が実効性をもって行われると、取引相手である販売業者間の競争は必然的に制限される。」

という、たんなる同義反復だけ、いわば言葉の綾、なのかもしれません。

つまり、赤本の立場は、販売業者間の競争が必然的に制限されても、公正競争阻害性がないといえる場合があることを否定するわけではない、と読むわけです(たぶん、それが正しい読み方だと思います)。

そうしないと、再販が原則違法ではなく、当然違法になってしまいます。

ただ、「必然的に」という背景には、「ブランド内市場」を想定していることがある、あるいは、再販が行われるのは他のブランドへの乗り換えが起こらない場合なのだ、という事実認識があるような気がします。

そうだとすると、これはこれで首尾一貫した説明の仕方かもしれません。

あともう一つ、p148で和光堂最高裁判決を引用したあと、

「・・・として、〔再販が〕原則違法であることを明確にした。」

というのも、(結論には反対しませんが)言い過ぎではないでしょうか。

というのは、引用部分は、ブランド間競争が促進されても自由なブランド内競争が行われた場合と経済的に同じとは言えない、といっているだけのように見えるからです。

2014年2月18日 (火)

シカゴ学派について

公正取引760号(2月号)のコラム「国内便り」に、「『米国反トラスト法実務講座』の連載を終えて」というタイトルで、連載中に考えたことなどを綴らせていただきました。

この連載を担当できたのは、私にとって、大変幸せなことでした。

というのは、私の独禁法の起源はシカゴ学派のバイブル、Robert Borkの「Antitrust Paradox」という本にありまして、米国反トラスト法の合理的な部分をなんとか日本の独禁法の解釈に持ち込めないか、と常々考えておりました。

急いで注釈を入れますと、私はシカゴ学派が正しいと思っているわけではありませんし、米国の解釈がすべて合理的だと考えているわけでもありません。

ただ、米国反トラスト法はシカゴ学派の洗礼を受けたため、大きな揺り戻しを受けつつも、落ち着くべきところに落ち着いた、という感じがします。

これに対して日本ではシカゴ学派の洗礼がないため、未だに、

「価格決定権は販売店の権利だ」

とか、

「販売方法の決定はメーカーの権利だ」

とかいう情緒的な議論や、

そもそも価格は市場における需要と供給で決まるという経済学の基本の「き」がわかっていないのではないか

と疑われるような議論が、まかり通っている(というと言い過ぎですが、論者のメンタリティの奥底に横たわっている)ような気がします。

あるいは、拘束条件付取引でも何でもかんでも、優越的地位の濫用に引き付けて考える発想があるような気がします。

少し前の公正取引で、岡田羊祐教授が、

シカゴ学派の理論に依拠して垂直的制限は無害だというスタンスの実務家の意見を見かけるが、垂直的制限も反競争的であり得るというのがポストシカゴの議論から学んだ教訓ではなかったか、

という趣旨の論説を述べられており、私も垂直的制限でも問題があり得るという点はそのとおりだと思うのですが、弁護士でも独禁法の非専門家がほとんどである(にもかかわらず、専門家のふりをして独禁法のアドバイスを多くの弁護士がしている)という現実に身を置いている実務家の率直な肌感覚としては、岡田先生の想定されているのはとても高尚なレベルであって、日本の弁護士(ひょっとしたら公取委も?)の実態は、とうていそこまで行っていないと思います。

つまり、シカゴ学派に依拠するかどうかというレベルではなくて、シカゴ学派をそもそも知らない、というレベルなのだと思います。

シカゴ学派は、そのまま法律解釈に持ち込むのは無理がありますし、「経済学者ですら、今日、シカゴ学派の考え方をそのまま採用する人はいない」と、ある高名な産業組織論の先生がCPRCのセミナーでおっしゃっていました。

効率性を重んじる経済学ですらそうなのですから、正義と公正を重んじる法律学ではなおさらです。

ただ、シカゴ学派というのは一つの極端なベンチマークとして、しかも極端だけれども非常に強固で明快なベンチマークとして、議論の出発点にする価値は未だにあると思います。

感覚としては、

単純なミクロ経済学に依拠するシカゴは、適用範囲はとてつもなく広いけれども、そのままだと明らかに過小規制、

だけど、

ゲーム理論を用いたポスト・シカゴは、シカゴよりは常識的だけれど、シカゴへの批判を提示できる場面がやや狭すぎ(しかも、シカゴを批判する場面でも、シカゴほどクリアーな結論は出ず、結局「良いか悪いかはケースバーケース」という結論になりがち)なので、やはり過小規制、

なので、

経済学と法律学の橋渡しをする妥当な解釈が求められる、

といったところではないかと思います。

2014年2月 6日 (木)

垂直的制限の経済分析

経済学の立場からは、ブランド内競争を制限する垂直制限が反競争的である理由として、

①販売店間のカルテルの隠れ蓑になる(とくに有力販売店がメーカーに押し付ける場合)、

②(小売価格が安定するため)メーカー間のカルテルを促進する、

といった主張があります。

これらの主張は、結局、垂直的制限は横の制限につながるからいけないといっているように見えるので、垂直であるがゆえ(なのに)違法というには弱い気がするのですが、もう一つ、

③需要者のタイプが一定でない場合には垂直制限が消費者厚生を減少させることがある

という主張があります。

そこで、この点に関する古典的論文である、

William S. Comanor, "Vertical Price-Fixing, Vertical Market Restrictions, and the New Antitrust Policy"

の要点をまとめておきます。

言っていることは単純明快で、初歩的なミクロ経済学の知識があれば理解できるので、ご興味のある方はぜひ読まれることをお勧めします。

(ちなみに、メーカーにマーケットパワーがない場合であっても、ブランド内競争が制限されること自体が問題であるかのような主張は、法律畑の人からはときどき聞きますが、多少なりとも経済学の知見がある人からは、およそ聞いたことがありません。)

同論文は、垂直的制限は常に消費者厚生を増加させるというシカゴ学派(とくにロバート・ボーク)の主張に対する反論なのですが、なるほどと思わせるところがあります。

同論文の要点は、垂直的制限により小売店が追加的に提供するサービスを評価する程度は需要者によって異なり、そのような現実的な想定に立つ限り、垂直的制限は消費者厚生を増大させることも減少させることもある、というものです。

つまり、ボークは、追加サービスによりすべての需要者の支払意欲が同額だけ上昇する(需要曲線が上方に平行移動する)と想定するのですが、同論文でコマナーは、それがおかしいといいます。

むしろ、追加サービスにより、支払意欲の比較的低い需要者(限界的需要者、marginal consumers)の支払意欲は大きく上昇するけれども、支払意欲の比較的高い需要者(非限界的需要者、infra-marginal consumers)の支払意欲はそれほど上昇しない、とコマナーはいいます。

非限界的需要者は商品の良さを元々よく分かっている可能性が高いので、これは現実的な想定だと思います。

そこで、垂直制限によって追加的に提供されるサービスによって限界的需要者が得る利益と、非限界的需要者が被る損失の、どちらが大きいかが問題となるわけですが、同論文によれば、それは2つの要素で決まります。

1つめの要素は、限界的需要者のグループと非限界的需要者のグループのどちらの方が大きいか、です。

非限界的需要者の数が多ければ多いほど、不利益を被る需要者の数が増えるので、消費者厚生はマイナスになる可能性が高くなります。

2つめの要素は、限界的需要者の追加サービスに対する評価と、非限界的需要者のそれとの差が、どれだけ大きいか、です。

この差が大きければ大きいほど、つまり、非限界的需要者の追加サービスに対する評価が相対的に低ければ低いほど、需要曲線は非弾力的となり、非限界的需要者は価格上昇に対する牽制力とならないことになります。

これに対して需要曲線が弾力的であれば、ほんのわずかの価格上昇でも非限界的需要者は購入をやめてしまうので、メーカーは価格を引き上げることができなくなります。

以上から、同論文は、市場で地位が確立している商品の場合は、需要者の大半が商品をよく知っているので、垂直的制限によって消費者厚生が減少する可能性が高いとしています。これも、素朴な感覚に合致すると思います。

これに対して、新商品や新規参入の場合には、垂直制限は消費者厚生を増加させるとします。

さらに注目すべきは、メーカーの市場支配力は垂直的制限が消費者を害する必要条件ではあるが十分条件ではない、といっている点です(注81)。

さらに続けて、市場支配力よりも重要なのは、特定の商品や情報サービスに対する評価が消費者ごとにどれだけ異なるかであり、市場シェアによるテストはほとんど意味がない、とまでいいます。

市場シェアがほとんど意味がないというのは割り切りすぎかなという気もしますが、10%または上位3位で地理的制限を問題視するかのような日本の流通取引慣行ガイドラインよりは、はるかに説得力があるような気がします。

ひとつ同論文に加えるとすれば、市場で確立された商品でも常に情報サービスを提供し続ける必要があることがある、ということです。

例えば、一定の年齢層の人が買う商品の場合、需要者は毎年歳を取っていきますので、常に情報提供をし続ける必要があるように思います。

例えば、顔の皺を取る美容商品などは、おそらく40代以上の人でないとあまり買わないでしょうから、毎年、40代の仲間入りをする人たちに情報を提供していく必要があるでしょう。

と考えていくと、人間いつかは大人になって、いつかは死んでいくのですから、消費者向けの商品は常に情報提供し続けていく必要がある、といえるかもしれません。

いったん市場で確立したら情報提供はいらない、というのは、主に法人(事業者)向けの商品でしょう。

ほかには、商品ごとに販売店レベルでの微妙な調整サービスが必要な商品なども、仮にその商品が市場で確立した評判を得ていても、垂直的制限が消費者厚生を増加させる場合だといえるでしょう。

平成23年度相談事例集の事例1などはこのパターンでしょう。

ついでにいうと、流通取引慣行ガイドラインのように一店一帳合制のような垂直制限を競争制限的だと考える発想の裏には、実際の市場では情報の不完全性が著しいという想定があるように思われます。

例えば、A社の市場シェアが40%だとすると、ある消費者が最初のお店に入ってA社商品が置いてある確率は40%で(1つのお店では1つのブランドしか売っていない前提)、さらに価格を比較しようと思って別のお店に行ったらまたA社商品が置いてあった、という確率は16%(=0.4×0.4)なので、多くの需要者は3つ目の店まで回らないであろうと考えると、16%の需要者がA社商品しか実質的には目にしなくなる、16%もいるんだから保護してあげないと、という具合です。

これは単純すぎる例ですが、ブランド間競争を軽視する立場の裏には、これと似た、情報の不完全性についての発想が根強くあるように思われてなりません。

もちろん、インターネットが普及してサーチコストが下がった現在では、このような発想はかなりの程度時代遅れになっているといえます。

さらに、お互いがプロであるBtoBの市場の場合にも、同じように流通取引慣行ガイドラインの発想が当てはまらない事情があると思います。

つまり、BtoBの市場では、一般的に、限界的需要者と非限界的需要者の差がそんなにあるとは思えません(自ら購入するインプットのことすらよく知らないような事業者は競争に敗れていくので)。

なので、BtoBの市場では、コマナーの論文の基準に従っても、垂直制限が消費者厚生を減少させる可能性は低いといえます。

常に相見積もりをとるような市場であればなおさらです。

いずれにせよ、単純に市場シェア10%で問題ありと読めかねない日本のガイドラインは、あまりにナイーブだと思います。

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