【閑話休題】「セブン・イヤーズ・イン・チベット」
週末、久しぶりに「セブン・イヤーズ・イン・チベット」を借りて観ました(以前観たはずだけど、いつだったか忘れてしまった)。
オーストリアの登山家(ブラッド・ピット)がイギリス軍の捕虜になったけれど脱走してチベットに辿り着き、若き日のダライ・ラマ14世と交流する、というお話です。
その中でチベット人の仕立屋の女性がブラッド・ピットに対して、
「あなた達は、一番になること、目立つことが大事だと考える。
でも私たちチベット人にとっては、いかに自分を捨てられるかが大事だ。」
と言うシーンがありました。
これを見てなぜか思い出したのが、昔流行ったSMAPの「世界に一つだけの花」という歌でした。
この歌が流行ったころ私はシカゴに留学してたので、どんな曲か知らなかったのですが、初めて聴いたときには、
「こういう曲が流行るようでは、日本の行く末も暗いなぁ」
と思いました(SMAPファンのみなさん、ごめんなさい)。
当時の日本の雰囲気が、外国にいたので分からないのですが、いかにも競争疲れしている雰囲気が想像できました。
でも、この曲のメッセージって、「一番でなくてもいいじゃん、競争しなくってもいいじゃん」ということで、あくまで競争至上主義に対するアンチ・テーゼに過ぎないんだと思います。
つまり、「競争するか、しないか」という二者択一の枠組みの中で、「競争しない」を選んでいる、という構図です。
別の言い方をすると、「競争する」というのと、「オンリー・ワンになる」というのとは、どちらも、「自分が、自分が」と、自分に執着している点では同じなのですね。
これに対して、「セブン・イヤーズ・イン・チベット」のセリフは、
「競争すること」
と
「自分を捨てること」
という、まったく違う枠組みを対比しています。
これはけっこう衝撃的でした。さすが、仏教の国。
「世界に~」が、
オンリー・ワンになる→競争しない→努力しない
という構図に対して、
「セブン~」は、
自分を捨てる→自分を超えた存在のために努力する
という構図です。
「競争」というのは、実は本質的には、社会的的協業ではないか、と最近思います。
でも談合は問題ですから、自分を超えた存在のために努力していたらそれが結果的に「競争」しているように見える、というのが理想ではないでしょうか。
また、そうやって抽象度を一段上げてアメリカ流の競争観から離れると、独禁法の競争観にも国ごとにいろいろなものがあり得て当然という気がしてきます。
« ノウハウが公知になった後の利用制限・実施料支払 | トップページ | 事前相談と法定の届出手続の違い »
コメント